2023年2月 第860号 「鹿児島県医師会報」に川井田理事長が寄稿した文章が掲載されました。


国防について
社会医療法人青雲会
理事長 川井田浩
2022年2月のロシアのウクライナ侵略や、中国の台湾への威嚇、東シナ海における過激な行動、南シナ海でのベトナム、フィリピンとの紛争など、ロシアの侵略や中国による周辺国への衝突事案が頻発している。国会では自衛権の行使や集団的自衛権について戦争に子や孫を狩り出すのかとか、自分の国を自分で守らないで誰が守るのかといった国防の議論が国論を2分してかまびすしい。北朝鮮は弾道ミサイルを連続して打ち上げ、韓国も歴史認識で日本を攻撃しているが、過去の世界の歴史を紐解いて、我が国の在り方を考察してみたいと思う。
加来彰俊著、プラトンの弁明によれば、古代ギリシャでは戦争に負ければ成年男子は皆殺しにされ、女、子供は奴隷にされ他国に連れて行かれるのがきびしい現実であったという。それゆえ、自由とはまずなによりも祖国の独立、自分の住んでいる国の存立なくしては考えられないわけである。
ソクラテスは人生とはただ生きるだけではなく、いかによく生きるかであると述べているが、ただ生きるだけが問題になる状況(戦争、隷属、飢餓)では人生そのものがふっとんでしまう事になる。
第三次ポエニ(フェニキア)戦争でカルタゴは古代ローマ帝国に滅ぼされ、その民族は消滅し、その地は草木一本生えない様に塩をまかれたという。カルタゴは当時貿易で栄えていたが、自分の国を自分で守るという概念が薄く、金で雇った傭兵に国防を頼っていた。(極端な言い方をすれば日米安保条約下の日本が該当しなくもない)
貿易紛争が起因となり、3度のポエニ戦争のあげく、ハンニバルの敗戦により第三次ポエニ戦争で国家が消滅した。現代において中国共産党によるチベットやウイグルにおける民族浄化策等は国防の必要性をいやと言う程痛感させる事例ではなかろうか。反日教育による中国国民の我が国に対する嫌悪感は、太平洋戦争と無関係な我々の世代に対しても異常なまでにかきたてられている様だが、一朝事あらば貿易立国日本が、中国が民主化されないかぎり、カルタゴの道をたどらないとは言いきれない。
プラトンは民主制が善と定めているものは自由であり、言論の自由を含めて誰でもしたいと思う事をする事が出来るし、自由に好きな様に暮らしをたてて良いとし、アリストテレスも人が自分の好きな様に生きることが自由であると規定している。しかし、田中美知太郎は「自由の自己矛盾」として、自由の無制限な追及は、自由そのものの否定になる事を明らかにしている。
その要諦は、仮に一つの自由な社会があるとし、その社会ではあらゆる自由が許されるとすると、自由な社会そのものを否定する自由も含まれていることになる。
その結果、自由そのものを否定する言論、思想、行動の一切が許される事になり、自由な社会が否定され、自由はなくなるというわけである。プラトンは過度な自由は過度な専制を生むという。従って真の自由とは法治ないしは遵法のことであると加来彰俊は述べているが、理解出来る考え方である。従って、この自由な民主主義の日本においてこの国を維持する事が経済優先だけで良いのだろうか。日本をとりまく周辺国の状況を考えるならば、憲法9条が定めている国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。という事は無防備でしかも相手の攻撃に対しても戦わないという事であれば、容易に日本国は占領され、殺戮され、残された国民も収容所送りとなり、洗脳教育を受けるはめにならないのだろうか。これからは法の解釈を都合よく捻じ曲げるのではなく、法治国家として、堂々と憲法を改正して、国防をタブーとせず国是とすべきではなかろうか。
国防にあたる人々をおとしめる事なく、処遇を含めて感謝の念を表すべき時が来ていると考えるが、いかがであろうか。